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僕と猫たち



 僕は,物心ついた時にはもう猫と一緒に暮らしていた.

 その猫,ミケには,本当に世話になったと思っている. 僕はミケが好きだった. ミケが死んでから,僕は猫が好きになったようだ. ミケがいた時は,猫ではなく,ミケが好きだったのだから.

 道で猫を見かければ,つい,声を掛けてしまう. 日向ぼっこしている猫のそばで,一緒に日向ぼっこしたりすることもある(猫にとっては迷惑な話かも知れぬが).

 そんな僕だから,ミケが死んでからも,いろいろな猫と出会った. 記憶に残る猫たちのことを書いておこうと思う.


ノラ

 僕が高等専門学校の5年生の時の,夏休みで久しぶりに家に帰った時のことだった(中学卒業の後,僕は家をでて,学校の寮や下宿で暮らしていたのだ). このころは,天竜市船明というところにあった母方の祖父の実家がわが家になっていた. この家も古い家で,母屋は江戸時代中期のもので,お蔵や厩も残っていたし,大正時代に建てた洋館もあった.

 さてある日,お蔵の前の中庭の草むらに,見慣れぬ猫がいる. しかも子連れだ. どうも,野良猫らしい. しかし,僕をみても逃げる様子もない. そこで僕は,僕のその日の夕食になるはずだったハンバーグを半分,猫にあげた. 猫はすぐには近づいて来なかったが,そのうち親猫はおそるおそるハンバーグを食べに来た. 親猫は自分も少し食べ,子猫に残りのハンバーグを運んで行く. 僕は残りのハンバーグも全部,猫にあげてしまった.

 そのうち猫は,安心して家の中にも入って来るようになった. そして,数日後には,わが家にいついてしまって,まるで10年前から一緒に暮らしていましたよ,というような顔をするようになった. ただしこれは親猫だけで,子猫はついにわが家にはいつかず,いつのまにかいなくなってしまった.

 家族になった猫には名前が必要になった. 母が彼女を,「ノラ」と命名した. これは野良猫のノラではなくて,イプセンの小説「人形の家」の主人公のノラだ(と母は言っていた).

 「人形の家」のノラは,自立するために家を出た. わが家のノラは,自立するために自ら家を出たのかどうかわからない. 飼い主に捨てられたのかも知れない(多分,そうだろう). 「人形の家」のノラは,子供を残して家を出た. わが家のノラは,子供を連れてやってきた. そして結局自立したのは,ノラではなくて,ノラの子供の方だった.

 さて,ノラは面白い性格をしていた. 猫=ミケだった僕にとっては,それとは正反対の性格の猫というのは,驚きだった.

 客が来ると,ノラは真っ先に応対に出ていく. 母が客に応対している間,ずっと傍らで一緒に応対している(別にお茶を運ぶとかの仕事をするわけではないが). ノラはとにかく,人好きだ(だからこそ,野良猫だったのにわが家にいついたのだが). 猫にしろ犬にしろ,飼い主の性格に似ると言う. きっとノラの元の飼い主は,僕の家系とは違って,随分と社交的な家だったのだろう.

 ところでノラは,妙なものが好物だった. 千切り大根を食べる. いくら猫が雑食だからって,千切り大根を食べるというのは,ちょっと意表をつかれた食行動だった. 多分,刺身のツマの千切り大根に魚の匂いがついていて,それを食べてから大根が病みつきになったのだろう. そうとしか考えられない. それにしても妙な猫だ.

 昔のミケは,鼠のプレゼントを持って来た. ノラも時々何かを持って来たが,これが驚きだ.

 ある日ノラは,立派な鯉を捕ってきた. どこかの池か川から捕って来たのだろうか,それともどこかの台所から失敬して来たのだろうか. 家の裏は天竜川で,鯉はいる. 近くの小学校の池にも鯉はいる. そして近くの(ちょっと離れているが)料亭の名物料理は「鯉の活き造り」だ.

 またある日,大きな秋刀魚を持ってきた. 家から海までは,バスと電車を乗り継いで,2時間では着かない. さてもこれは大変なことだ. しかし,いまさらどこに返すわけにもいかない. せっかくノラが持ってきてくれたお土産だ. 有り難く頂戴して,とりあえず金網に乗せて焼いた. 結局僕は食べないで,焼き上がった秋刀魚はノラ自身のご馳走になってしまったのだが. そして僕には,その煙と匂いだけがおかずとなった.

 いずれにしてもノラは,魚を捕ってくるのが得意なようだ.

 もちろん,ノラだって鼠はよく捕った. ノラが来る前は,わが家の天井裏は,鼠の天国だったようだ. 夜寝ていると,天井を鼠の駆け回る音がしていた. ところがノラが家族になってしばらくすると,鼠の音はさっぱりしなくなってしまった. さすがに猫だ.

 ノラも,ミケに負けない程,賢くて,品の良い猫だった. ちょっと妙なところもあったが,僕は結構この猫も気に入っていた. ただ残念なのは,学生時代は夏・冬・春の休み,それと秋の試験休みの間しか,就職してからは,年にほんの数回しかノラに会えなかったことだ.


ノラ(年令不祥)1973年

 ノラが家にやって来て2年か3年ほどしたころ,ノラは突然姿を消してしまった. このころの家の前は,田舎のことではあるが,国道が走っていたから,事故にあってしまったのかも知れない. しかし僕は,かつてノラがわが家にやって来た時のように,またどこかに行って幸せに暮らし始めてくれたんだろうと思っていたい.


立ち退きの説得に応じた野良猫

 ノラがいなくなった翌年,ちょうど僕が,休暇を取って家に帰っていた時のことだ.

 ノラがいなくなってから,わが家は猫にとっては空き家となっていた. このころ,弟も大学に進学して横浜に住んでいたし,もともと母は勤めに出ていたから,昼間は人間にとっても空き家同然であった.

 そこへいつのまにか,野良猫が天井裏に住み着いてしまっていた. 猫が住み着くだけのことなら構わないのだが,今度は本当の野良猫で,人にはなついてこず,天井裏だけで生活している. それも一向に構わないのだが,その天井裏で子供を生んで育てているらしい. これは少々困る. 天井裏には,結構貴重なものが保管してあった. 貴重とは言っても,金目のものではない. 古文書(と言うほど古くはないが)の類や,昔の道具類,衣類などだから,大したことはないのだが. それでも仔猫たちに汚されるのは好ましいことではない.

 この事情を知ったお隣りの奥さんが,面白いことを言い出した. その奥さんは,「猫だってこっちが真剣に話しをすれば必ず気持ちは通ずるはずだ. これからその猫を説得してみよう」,と言うのだ.

 その奥さんが玄関に入って来たちょうどその時,玄関脇から天井裏にかけられた梯子段を件の野良猫が降りて来ようとしたところだった. そこで奥さんはすかさず,次のように説得した.

  • ここはお前の家ではない.
  • そこで子供を育てるのは困る.
  • 向こうの(指さしながら)納屋の天井裏なら住んでも構わない.
  • 子供を連れて向こうに移りなさい.
大げさな身ぶり手振りを交えながら,何度も何度も,繰り返し説得した. 驚いたことに猫は,これをじっと聞いて(見て)いた.

 この説得をした次の日のこと. 野良猫の家族は,本当に離れの納屋の天井裏に引っ越していたのだ.

 いやまったく驚いたことだ. 本気で説得したお隣の奥さんにも,説得を正しく聞き入れたこの野良猫にも,ただただ脱帽するしかない.


集団でやってきて,
やがて去っていった子猫たち

 僕が浜松の短大に赴任して,3年目のことだった.

 単身赴任していた僕は,短大の構内にあった家族用の職員宿舎に一人で住んでいた. 木造平屋建のずいぶんと古い宿舎だったが,庭付きで,ある意味ではなかなか快適なところでもあった.

 さて,ある初夏の夜,外でミーミーと子猫の声がする. 見ると,5匹の子猫たちが庭から宿舎の縁台に昇ってこようと七転八倒している. 生まれて間もないらしい子猫たちには,40センチほどの高さはとても昇れない. 僕は1匹ずつ手で持ち上げて,部屋に入れてあげた.

 捨て猫だろう. 野良猫の子供なら,こんなところに来る筈がない. お腹を空かしているらしい. 冷蔵庫から子猫に食べられそうなものを探したが,たいしたものはない. 慌てて近くの店で牛乳を買ってきた.

 子猫たちはそのままいついてしまった.

 出勤中は宿舎の中に入れておくわけにもいかないから,宿舎を出るときは外に出し,昼休みと夕方には餌を与えに宿舎に一旦帰るのが日課になった. 夜は窓を少し開けておいて,自由に出入りできるようにしておいた(だからトイレは庭だ).

 最初はほっておくと今にも死んでしまいそうなほどかよわい赤ん坊だったのに,少し大きくなって力が付いてきたら,まったくこの猫ども,腕白でやんちゃな子供になってきた.

 夏の盛りのころになると,とんでもないことを始めた. 昼間は外に出して,宿舎は締め切っていたのだが,帰ってみるとちゃんと部屋の中にいたりする. 一体どこから入るのだろうと不思議に思っていたが,その答えはじきにわかった. ある日,帰ってみると,妙なところから猫たちの声がする. なんと,雨戸の戸袋の中だ. 雨戸の戸袋に外から入り込んで,雨戸を上に這い上がり,そこから中に入っていたらしい. ところが少しずつ大きくなってきて,今日はその戸袋の中で身動きとれなくなってしまったのだ. 戸袋から引っ張りだすのには一苦労させられた. (これは一度きりのことではなく,戸袋に全然入れなくなるまで何度も同じことをしてくれた).

 まったくこの猫たちには驚かされることが多かった.

 猫がまるで犬のように散歩について来るという経験も初めてだ. 僕は散歩が好きで,よく宿舎の周りを散歩した. 周りは田圃や畑,それに小さな林もあって,近くには小川も流れている. 散歩するにはちょうどよい. 僕が散歩に出かけようとすると,猫たちがついてくる. 最初は追い返そうとしたが,追っても追ってもついてくる. ついにあきらめて一緒に散歩することにした.

 けれど,子猫と一緒の散歩は,散歩にならない. ちょっと歩いては何かを見つけて遊び始めてしまう. 遊び飽きるのを待っていたらきりがない. さっさと先に歩いて行くが,やっぱり気になってあまり先までは行けない. 僕を待たせておいて,やがて遊びに飽きると転げそうな勢いで僕の足元目掛けて走ってくる. それまではとにかく待つしかないのだ.

 そんなわけで,猫たちがいる間,本格的な散歩ができなかったのだが,それにしても猫が散歩についてくるなんてことがあるんだろうか. 散歩の味をしめた猫たち,夜になると盛んに散歩に行こうと僕を誘うようにさえなった.

 ところで,この子猫たち,いつのまにか少しずついなくなってしまった. どこに行ったのかはわからない. 宿舎の前は道路だが車はほとんど通らないし,轢かれた死体もみなかった. 宿舎の隣は学生寮で,時々いたずらされて帰ってくる猫もいたが,しかしいくらなんでも猫を殺してしまうほどの学生はいないだろう. 1匹去りまた1匹去り,と,夏の終わりころには1匹になってしまった.

 僕は,夕食を食べた後は再び学校に行き,深夜までそこにいるのが普通だった. 最後に残ったこの猫は,僕に夜の出勤には必ずついてきて,建物の入り口近くで帰りを待っているようになった. そこには空調の室外機があって,暖かかったのだ(そう,その頃にはもう秋も深まっていたのだった). ところが毎日そううまくいくわけではない. 時には彼女のお気に入りのその場所を,他の猫が占領していることもある. そんな時,彼女はとりあえずその猫に突っかかっていって,すぐさま追い返され,僕に助けを求めるのだった. 彼女を追いかけてきた猫は,僕が彼女の保護者であることを察すると,すごすごと去っていった(あの時の猫君,わがままな子猫を許してくれたまえ).

 ところでこの猫は,妙な(そしてとても困った)楽しみを持っていた. 宿舎と学校の間には野球のできるグラウンドがあるのだが,そのピッチャーマウンドで用を足すのがお気に入りだった. この趣味のおかげで僕は,随分とつらい立場に立たされたものだ. 朝,彼女の趣味の痕を見つけた管理人は,カンカンになって僕のところに怒鳴り込んで来る. その度に僕は,生きた心地がしなかった. まったく,猫め,僕のことも少しは考えろ.

 いろいろと大騒動もあったが,子猫(たち)のおかげで僕は,随分と楽しい日々を過ごさせてもらった. しかし,最後に悲しい別れがやってきた.

 冷たい小雨の降る夜だった. いつまで待っても猫は帰ってこない. ついに最後の1匹もどこかに去っていったのかという思いが胸をしめつける. そして次の朝,宿舎の前の道で猫を発見した. 冷たくなっていた. 傷はないが,車にはねられたことは間違いない. 宿舎の庭に穴を掘って,遺体を埋めて,小さな墓標を立てた.

 それから半年後,この宿舎は取り壊され,整地されて,今では新しい学生寮がその上に建っている.