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僕と猫





僕とミケ

 僕は,静岡県西部の山の中,磐田郡下阿多古村上野(今は天竜市上野)というところで生まれた.

 生まれた時の家族は,祖母,両親,それに犬だった. 家には他にも,山羊がいたらしい(僕は山羊に乳を貰っていたらしいが,蹴られて怪我をしたこともあるそうだ). それから,天井裏には鼠もたくさんいただろう(家族とは思えないが). 毎年初夏には燕がやってきて,何ヵ月かの長期滞在をしていった.

 うちにいた犬は,名前をエスと言った. 残念ながら僕にはその犬の記憶はないのだが,僕の生まれたばかりの頃の写真を見ると,大きな犬が一緒に写っている. 立派なシェパード犬だった(こんな昔の田舎に,なんでまた,シェパード犬なんかがいたんだろう).

 赤ん坊の僕の面倒をみてくれたのは,この犬だったそうだ.

 僕の生家は,室町時代から続くらしい農家で,家の周りにはそれなりの田畑や山があった. しかし,父は役人であったから,昼間は家にはいない. だから農家とは言っても,実際にはほとんど家は耕作をしていなかった(近所の家に土地を貸していた)のだが,それでも家の周りの少しの田畑を使って,家族が食べる程度のことはしていた. 祖母と母が野良仕事や茶摘みをする間,僕は行李に入れられて畑の隅におかれていた. その傍らにはいつも犬がいて,僕の相手をしながら,むずがったりすれば母を呼ぶ,というような役目だったそうだ. しかし,僕の物心がつく前に,この犬は病気で死んでしまった.

 さて,犬の話しはこれでおわり.

 僕が生まれたのは1952年の4月.

 僕が生まれたその年に,父が,生まれたばかりの仔猫をもらってきた(だから,僕とその猫とは同い年ということになる). その猫の生まれが,父の実家の近くの臨済宗の寺,金剛山庚申寺というお寺であったことを僕が母から聞いたのは,それから46年も経ってからのことだ.

 彼女はミケと名付けられた. 雌の三毛猫だったのだ.

 ミケが来たばかりのころ,母はちょっと大変だったろうと思う. 生まれたばかりの人間の赤ん坊(僕)に加えて,猫の赤ん坊(ミケ)まで世話しなくてはならないのだから.

 とにかく,僕はミケと一緒に育った. 僕はミケの世話になり,もちろん僕はミケの世話をして,僕にとってミケはかけがえのない存在となった. そして,ミケの一生にとって最も長い時を一緒に過ごしたのは,明らかに僕だ. ミケ自身の親・兄弟,子供たちとは,長くても数ヶ月しか一緒に過ごしていないし,ミケをわが家に連れてきた父はミケより先に死んでしまい(祖母はそれよりもっと前),弟はミケより後から生まれた. 母と僕とはちょっと微妙だが,ミケは僕と一緒にいた時間の方が絶対に長い.

 そんな僕とミケとの思い出などを書いておこうと思う.


わが家全焼

 僕とミケが3歳になる少し前の正月9日の深夜,わが家は失火のために全焼してしまった.

 普通の記憶は5歳くらいからのものしかないのだが,この火事のことだけは覚えている. 父に抱かれて隣の家(隣と言っても,200メートル以上は離れている)の庭からわが家の方向を見ると,竹薮ごしに真っ赤に燃える火が見えた. 真っ暗な夜空を真っ赤に染めた炎と煙,舞い散る火の粉,闇の中から聞こえるけたたましい消防のサイレンや半鍾の音. これは本当に恐ろしい情景だった(今でも目の奥深くに焼きついていて,色は褪せてきたが消えてしまうことはない). この当時は,わが家まで車の入って来られる道はなかったから,結局,家が焼け落ちるのをただ(文字通り)手をこまねいて見ているしかなかったのだ.

 家が全焼した後しばらく,人間の家族4人は,近くの公民館のようなところ(報徳会 館と呼んでいた)に住んだ. しかし,ミケは?  火事の後,ミケはいなくなってしまったのだ.

 それからしばらくして,焼けた家の近くを歩いていた母が,痩せて衰弱した三毛猫を見つけて,連れて来た. だがその猫はそれからじきに死んでしまった. ミケが死んでしまったものと,家族みな,思い込んだ.

 何ヵ月かして,粗末ではあるが一応住める家が建ち,元の屋敷の場所に戻った. すると,どこからか三毛猫が現れた. これこそ我がミケであった. 数ヶ月前に死んだのは,ミケではなかったのだ.

 猫は3年飼っても3日で飼い主を忘れると言う. これは猫たちに対するとんでもない侮辱だ. ミケは,3年も飼っていなかったのに,何ヵ月もしてちゃんと帰って来たではないか. それにしても,火事ですべてを失ってしまったわが家にとって,ミケが帰って来たのは本当に嬉しいことだった.


ミケの寝床

 ミケは,いつでも僕の布団で寝た.

 当時はたいした暖房器具もなかったし,そもそもわが家は火事で全財産を失った後だったから,何もない. だから,冬の夜は寒い. おまけに僕は,大変な寒がりだった. 弟は真冬でも母に叱られるまで靴下を履かなかったが,僕は布団の中でも靴下を脱げなかったほどだ. だからミケは,僕のアンカ代わりでもあった.

 僕が寝るとき,ミケも一緒に僕の布団に入り,僕の胸のあたりで丸くなって寝る. 僕はミケがいないと寝られなかった(寒くても寒くなくても)し,ミケさえいれば機嫌良く布団に入るのだった. 本当に寒い日は,ミケを先に布団に押し込んでおいて,僕はさらにしばらく炬燵で暖まり,布団が暖まったころを見計らって布団に入る,というずるいこともしたものだ.

 だが,猫のアンカは,問題もある. 寝るときはそれでいいのだが,しばらくして布団が暖まると,いつのまにか布団から出て,僕の胸の上に乗って寝ていることもあった. そのせいで悪夢を見たこともある. しかしまあ,そんなことは滅多になくて,そういう場合は大抵は足元の布団の上にいてくれたのだが.


「坪井ミケ」

 小学校1年か2年の頃,僕が風邪をひいて寝込み(風邪で寝る時も,ミケは離せない),医者の往診をしてもらった時のことだったと思う.

 医者が注射(当時は,風邪と言えばすぐに注射だった)などした後で,彼女(女医さんだった)が僕に猫の名前を尋ねた. 僕が「坪井ミケ」と答えたら,医者と母に笑われた.

 猫だって家族なのであって,家族はみな同じ名字を付けて呼ぶものだと信じていたから, 僕にはなぜ笑われたのか,随分永い間理解できなかった. とにかくその時は,いたく傷つき,おかげで風邪もひどくなったような気がした.


ネズミのプレゼント

 ミケはときどき,僕にプレゼントを持ってきてくれた. プレゼントと言っても,猫の価値観で選択するものだから,少々閉口する.

 ある朝目覚めると,枕元にネズミがいた. 死んではいないが逃げるだけの力もない. そしてその傍らには,ミケがさも得意そうな顔をして座っているのだった. 僕にネズミを食べろと言っているのだろうか. それともネズミで遊べと言っているのだろうか.

 後で知ったことだが,飼い猫の心理は,ある時は「飼い主=親・自分=子供」,またある時は「自分=親・飼い主=子供」となるとのこと. この時ミケは,僕の母親になったつもりだったんだろう.

 ところでネズミならまだしも,カエルやトカゲを持ってきた時には,さすがに素直に 喜ぶ気にはなれなかった.


ミケの子供

 ミケも子供を何度か産んだ.

 お腹が大きくなって,子供が産まれそうになると,僕は蜜柑箱にぼろ布などを敷き詰 めた産褥を作って,なるべく人目につかない場所(天井裏など)に置いてあげた. ミケはその中で子供を産む. 生まれたての仔猫は,まるでネズミみたいだ. 目も開いていない. ただミーミー言いながら,ミケの乳を飲んでいる.

 さすがに子供が産まれた時は,ミケは僕にはちっとも構ってくれないから,仔猫たちに 少し嫉妬しつつ,母親であるミケには尊敬の気持ちも湧いたものだ.

 ミケの産んだ子供たちは,どこかに貰らわれていくこともあった. だが,必ずしも貰い手が見つかるわけではなかった. 悲しい,辛い想いも何度かした.

 産まれた仔猫たちをボール箱に入れて,大雨の降った後の川に持って行き,流したこともある. 当時はこうすることが普通だったようだ(もっともっとずっと昔は,人間の赤ん坊にも こういう処理をしたのかも知れない).

 ある年,僕はどうしても仔猫たちを川に流すことができなかった. そこで,裏山にある洞窟の奥に仔猫たちをいれたボール箱を置いてきたことがある. もちろんミケには見つからないように. それから毎日,その洞窟の前まで行ってみた. すると,それからおよそ1週間くらいの間,洞窟の中から「ミーミー」という声が聞こえていた(最後のころは空耳だったかも知れない). あの声は,今でも耳の奥底に残っているような気がする. その洞窟は,1974年の集中豪雨(七夕豪雨と呼ばれている)の際に土砂 崩れがあって,今は無くなってしまっているが,あの時以来,その洞窟の中に 入る気にはなれなかった.

 今ならペット(僕は「ペット」という言葉が大嫌いだ.ミケは断じてペットなんぞと いう存在ではない)の避妊手術をするということも普通だが,当時はそんなことは思い つきもしなかった(そもそも,その当時の僕には妊娠とか出産とか,その仕掛すら知ら なかった)し,しようにも出来なかっただろう.


燕と蛇

 当時のわが家には,毎年燕の夫婦がやってきて,巣を作って子供を育てていた.

 わが家の燕の巣は,畳の部屋の天井の梁に作られていた(畳に糞を落とされると 困るから,巣の下には板で棚のようなものを付けてあった). 巣は家の中だから,燕が巣に戻るまでは戸を閉められない. 朝になると,燕が外に出たくてピーピー鳴き立てながら家中を飛び回るので, 朝寝坊はしていられない. 押し掛け目覚まし時計みたいなものだ(それもそうとうに強力な).

 ところで,猫は小鳥もよく捕る. ミケも雀を捕ったことがあることを僕は知っている. 雀ばかりか,山鳥やいろいろな野鳥を捕っていた. だが,家に来る燕には絶対に手を出さなかった. 燕を自分の家族と認めていたのだろう.

 さて,ある夏の夜,ミケが突然唸り声を上げた. ミケの睨んでいる方向を見上げると,大きな蛇(アオダイショウ)が燕の巣を狙っている. 僕も家族もぎょっとした. その瞬間,ミケは柱を駆け上がって天井まで飛び上がり,その蛇を叩き落としたのだ. その後はミケと僕との共同で蛇を捕まえ,次の日,蛇は竹に挟んで川に捨てた.

 ミケは,単に蛇を攻撃しただけなのか,燕を助けようとしたのか,今となっては(今にならなくても)分からないことだが,いずれにしても僕には頼もしい行動に思えた.


鶏と野良猫

 ミケが守ったのは,燕だけではない. ミケが最も頻繁に闘った相手は,野良猫とイタチだったようだ.

 わが家では鶏を飼っていた. 飼っていたと言っても,今どきの養鶏場のようにたくさんいたわけではではない. 庭に鶏小屋はあったが放し飼いで,昼間は勝手に庭や畑を駆け回って餌(ミミズや草)を探して食べる. 暗くなると小屋に戻り,鶏たちがみんな小屋に戻ったことを確認して,小屋の戸を閉める. しかし,夜になっても小屋に戻らず,屋根の上や,庭にあった古い柿の木の枝の上で寝る強者もいた. そんな飼いかただから,10羽程度のことだったろう. それでも,毎日,小屋の中の卵箱には,鶏の数にちょっと足りない程度の卵があったから,家族が食べる卵は充分で,余った卵は時々農協で買い上げてもらうこともあった.

 ところで,ある日,身体の弱った鶏がいた. そのままにしておくと,他の鶏に攻撃されてしまう(鶏は攻撃性が結構あるのだ). そこで,竹篭をかぶせてその鶏を隔離して庭においておいた.

 そこへ野良猫がやってきた. 野良猫は竹篭を倒し,篭の中にいた鶏は野良猫の餌食になってしまった. 野良猫とは言え,自由に外を駆け回っている元気な鶏ではそう簡単には捕まえられないが,篭に閉じこめられた弱った鶏を捕るのは簡単だ. あっというまに鶏をくわえて,逃げて行った.

 これに最初に気付いたのは縁側にいた母だった. 母は履き物も履いたかどうか,慌てて野良猫を追いかけて走った. 次に気付いたのは,家の中で日向ぼっこしていたミケだった. 庭に飛び出したミケは,母の後から走り,途中で母を追い抜き,野良猫に追いつき,格闘の末,ついに捕られた鶏を取り返した. 残念ながら,もちろん,鶏は死んでいたが.

 鶏を狙うのは,野良猫だけではない. イタチも来る. イタチは,夜やってきて,鶏小屋の金網の下の土を掘って小屋の中に入り,寝ている鶏を襲うのだ. 夜中,真っ暗な庭から,ミケと鶏と,それ以外の獣のけたたましい声が聞こえ,次の朝,鶏小屋が荒らされていて,鶏は殺されていたり無事だったりした. 僕と一緒に寝ているはずのミケが夜中に時々いなくなったのは,用足しにではなくて,夜回りに行っていたのだろうか.


夜の用足し

 わが家の便所(トイレと言うイメージではない)は,家の外にあった. 家があるところは,他には家のない,山の中のほとんど一軒家だ. 暗闇の庭を歩いて用足しに行くのは,とても恐い. まだこのころの暗闇の中には,お化けや妖怪や幽霊や狐や蛇や蜘蛛がいっぱいいたのだ.

 夜中に用足しに行く時は,いつも誰か(母か祖母)について来てもらっていた. だが,少し大きくなると,ちょっとそれは恥ずかしい. そこで,ミケのお世話にななることにした. 僕の用足しが終われば,必ず御礼に鰹節をあげることにしていたから, ミケは嫌な顔もせず,ちゃんとついてきて,便所の入り口で待っていてくれた(時々裏切られたこともあるけど). そんなわけで,ミケがいなかったら僕は,膀胱破裂で死んでいたかも知れない.

 普通に家族のいる時でもそんな具合だから,誰もいない夜は,ミケがいなかったら本当にどうにもならなかった.

 僕が小学校3年の頃,弟が目の怪我をして,その手術のためにしばらく町(浜松)の病院に入院することになった. 母は付き添いで,ずっと一緒に病院に泊まりこんだ. 父は僕が小学校に入るころから入院したまま(一旦は退院したのだが,すぐに別の病院に入院した)で,家にはいない. 祖母はその少し前から寝たきりになっていた. 家事と祖母の世話には,家政婦さんを雇っていたが,夜は,寝たきりの祖母と僕とミケだけだった.

 そんなことがもう一度あった. 弟が,今度は足の骨を折って,入院した. やはり母は付き添いに行った. これは祖母も父も死んでしまってからだったから,夜は僕とミケだけになってしまった. 風の音しか聞こえないような山の中の一軒家に,一人で夜を過ごすのはとても耐えられない. 毎晩,ミケを抱いて離さないで過ごした.

 一人で過ごさねばならないそんな夜,大きな蜘蛛が出たことがあった. 僕は蜘蛛が大嫌いだ. そんなものがいると,生きた心地もしない. もちろん,自分で蜘蛛を追い払う勇気はない. ミケにお願いして(けしかけて)難を逃れたのだった.


ミケの食事

 ミケの食事の世話は,大抵僕がした. 夜の用足しについてきてくれたからではなく,僕が食事の世話をするからミケもこころよくついてきてくれたのだ.

 猫の餌は「ご飯に鰹節を掛けたもの」,犬の餌は「ご飯に味噌汁を掛けたもの」,と,昔から相場が決まっている. うちのミケも,普通はそんなものしかもらえなかった. たまに秋刀魚が食卓に上れば,その頭と尻尾と骨はミケのものだった.

 今のような,栄養バランスを売り物にしたペットフードだなんてものは存在もしなかった. それでも,ミケは,栄養失調になるどころか,元気に暮らしていた. それは,鰹節を掛けたご飯しか食べていなかったわけではないからだろう. 気がむけば自分で狩をして,ネズミはもちろん,そのへんの小動物を食べていた. また,体調を崩した時には,苦そうな草をムシャムシャ食べていた. 当時の僕にはわけが分からなかったが,おそらく,薬(薬草)だったのだろう.

 今のペットの猫たちに比べたら,なんともお粗末な餌しかもらえなかったのだが,むしろその方が幸せだったのだろう(いや,「だろう」ではなくて,そう断言できる).

 人間の僕だってそうだ. 当時は,まことに粗末なものしか口にはできなかった. 今は何だって食べようと思えば食べられる. 種類だけではない,量だって過剰に食べられる. けれど,それが幸せなことなのだろうか. 人間が昔から食べていたようなものを,人間が昔から食べていたような量だけ食べていれば,成人病なんてこともなかろうし,過剰生産のためのいろいろな歪も生まれはしなかったろう.

 ところで,当時のわが家でご馳走(ご馳走というものは,めったに食べられないものである)と言えば,刺身かカレーライスだった. ミケにとってもこれはご馳走だった. 僕の分の刺身は,だから,必ず一切れはミケにもあげた. さて,刺身が猫のご馳走なのは不思議ではない. ミケは,カレーライスも好きだった. そのわけは未だにわからない.


ミケの席

 わが家には掘り炬燵があった. 冬は櫓に布団を掛けて炬燵として,夏には掘った所を板で塞いで,櫓をただの食卓として使っていた. 家族は,家の中では,寝る時以外はその炬燵の周りで過ごしたのだが,各々の座る席は,厳格に決まっていた. 祖母が寝込んでからは,上座(仏壇の前)が父の席,その向かいの台所への戸口が母,上座に向かって左手が僕,その向かいが弟だった. ミケの席も決まっていた(ミケが勝手に決めたのだが). ミケの席は僕と共有だった(あるいは僕の膝の上).

 父の席は決まってはいたが,父は入院していて,ほとんど家にはいなかった. それでミケは,空いている父の席で丸くなることもあった. もちろん,母や弟の膝に乗ることもあった. ところが,たまに父が病院から帰ってくる(外泊に来る). そんな時,ミケはとても困惑しているようだった. ある時父が自分の膝にミケを乗せようとしたら,ミケは嫌がって逃げてしまった. 父にしてみれば,自分がもらって来た猫なのに,その猫に嫌われては悲しかったかも知れない. ただし父は,「自分は猫は嫌いである」,というような顔をしていたが.


ミケの人嫌い

 たまにしか帰って来ないとは言っても家族である父に対してでさえそんなミケだから,知らない人が来た時には大変だった. 親戚の人が泊まりに来た時(そんなことは滅多になかったが)など,縁の下に潜り込んだまま,こっそりと餌をもらいに来る以外,出てこようともしない.

 僕が小学校4年の時に祖母が,6年の時には父が死んで,葬式やら法事が続いた. 特に葬式は,田舎のことだから,自宅で行い,親戚の人達は通夜から葬式の翌日くらいまで家に泊まり込んでいた. その何日もの間,ミケは,小さくなって隠れていたのだ.

 とにかくミケは人が嫌いだった. しかし実は,僕も人が嫌いだったのだ. 僕自身も,客が来れば奥の部屋に引っ込んで,息をこらして客が帰るのを待っていたのだ. 親戚の人などが来て,母に挨拶しなさいと言われて引っ張り出される時は,死ぬほど辛かったものだ(子供のころの僕は,ひどい赤面症だった).

 それにしてもミケの人嫌いは尋常ではなかった. 家の中,あるいは家の庭あたりでしか,僕にさえ近寄って来なかったのだ. ある日,小学校からの帰道でミケに出会った. 僕は嬉しくて声を掛けたのだが,ミケは慌てて家に走って帰り,家の縁側で僕を出迎えてくれた.


ミケの言葉

 ミケの言葉は,僕にはよく分かった. 声の調子と仕草で分かるのだから,いわゆる「言葉」とは言えないかも知れないが.

 ミケの呼ぶ声は「ミャァ〜ゴ ミャァ〜ゴ」. お腹が空いて食べ物を欲しい時には「ミャ〜」と言いながら,身体を擦り寄せて来る. 僕の布団に潜り込みたい時は,枕元まで来て「ニャ」. ミケが僕に対して怒ったことはないが,野良猫などに対しての威嚇の声はなかなかすさまじい. 嬉しい時は,声はほとんど出さないで,目を閉じるか細めながら,ゴロゴロと喉を鳴らす.

 もちろん,こんな単純で抽象的なことだけではなく,現実の場面でミケの言いたいことが,まず間違いなく僕には理解できた. なぜ理解できたと言えるのか? それは,ミケとのコミュニケーションがちゃんと成り立っていたからだ. ミケが僕に何かを要求し,僕がそれを理解して反応すれば,ミケは喜ぶ. また逆に,僕がミケに何かを要求すれば,大抵はミケはそれに応えてくれた.

 ただ,残念ながら,人間同士で話しをするようなわけには行かなかった. それが僕にはなんとも悔しく,切ないことだった. もっとミケに僕の気持ちを,とりわけ感謝の気持ちを伝えたいのに,なかなかそれがままならない. ミケに声を掛けても,ミケは口では返事もせず,ただ尻尾をピクピクッと揺するだけだ.

 中学生のころ僕は,「ミケが人間だったらなぁ」と,いつも思っていた. ミケが人間だったら,僕の奥さんにしたいのになと,本気で思ったものだ. もしかしたら,僕の初恋は,ミケだったのかも知れない. でも,僕がこんなことを思った頃にはミケは,猫としてはもうとんでもないお婆さん猫だったのだが.


ミケ14才(1966年夏)


ミケの最後

 僕が中学3年生の秋のことだった. 学校から帰ると,家には誰もおらず(母は仕事だし,弟も帰っていなかった),ミケだけがいた. ミケはいつものように,炬燵の周りの僕の座る座布団の上で,気持ちよさそうに寝ていた. 猫はよく丸くなって寝るが,この時のミケは長々と身体を伸ばした形で寝ていた(別に珍しいことでもない).

 しばらくミケを見ていたが,それにしても動かない. 呼んでも,尻尾をピクともさせない. 様子が変だ. ちょっと触ってみて仰天した. 僕の目の前は真っ白になってしまった. ミケは冷たくなっていた.

 祖母が死んだ時は,今日か明日か,という状況だったから,特に驚きもしなかった. 父の時は,驚く余裕もなかった. 父は,朝寝坊の僕を起こそうと隣りに敷かれた布団の中から僕を呼び,僕が目を醒ます前に力尽きてしまった. そして,いつまでも起きない僕を起こしに来た母が父の死に気付き,僕は突然たたき起こされて人を呼びに走らされたのだ.

 ミケは死んだ. 僕は,何も考えることが出来なかった. ただ涙と時が流れていただけだ.

 やがて,家族が帰って来た. それから,ミケを,庭の大きな夏蜜柑の木の根元に埋めた. 僕の座布団と一緒に.

 猫は,死ぬときには人の目につかないところに行って死ぬと言う. しかしミケは,最後の最後まで,僕と一緒だった. 心残りは,死ぬときに僕がついていてあげられなかったことだ. しかし,ミケの最後のあの安らかな顔は,決して苦しんで死んだのではない. それだけは確かだ.

 ミケ,享年15才. そして30年以上の時が過ぎた. あれからじきに廃屋になったわが家の庭のあの大きな夏蜜柑の木も,今では枯れてしまって残っていない.


注:2005年,さらに浜松市と合併し,現在は浜松市上野. なんだか妙な感じです.