コロナコンクールコムソウコキ

2021国際尺八コンクールin田辺 顛末記

1.紀州田辺は遠かった

 2021年11月6日の朝7時前に横浜の自宅を出発、新幹線と在来線の特急を乗り継いで、和歌山県田辺市の「南紀文化会館」には13時到着、6時間かかった。天気は良く、のんびりと車窓の景色でも眺めて楽むこともできたかも知れないが、そんな気分にはとてもなれなかった。コロナの新規感染者数は異様に減少しているとは言え、やはり遠出は恐ろしい。神奈川・東京以外に出かけるのは実に2年ぶりだ。しかし気持ちが浮かないのはそれだけではなくて‥‥

 この日、ここで「2021国際尺八コンクールin田辺」の本選会があった。何の間違いか、私はこのコンクールの予選を通過して、本選に出場する「ファイナリスト」というものになってしまった。

 日本人ファイナリストは13人。13人の平均年齢は55歳、60歳以上が9人、最高齢は78歳だとか。コンクールと言えば年齢制限があるのが普通だから、69歳の私が最高齢だと思っていたから、当てが外れた。

 会場に集合すると、私以外の多くは互いに顔見知りのようだ。本番前の短いリハーサルがあり、控室では、如何にも場違いな私がそこにいることの違和感ばかりを感じながら、出番を待った。そんなだから当然、私は惨憺たる結果に終わった。

 海外からのファイナリストは7人だった。しかしコロナ感染症のため入国ができず、彼らはビデオ審査となった。海外ファイナリストはすべて中国人。会場で彼らの演奏ビデオを見たが、実にうまい。そして皆若い(ちなみに、応募者の中の最年少は、9歳の中国人の少女だったそうだ。予選で落ちたそうだが)。ビデオは失敗すれば何度でも撮りなおせるから一発勝負の実演とは条件が違うとは言え(だから賞は別枠となっていた)、それにしてもうまい。西洋クラシックのコンクールで日本人が上位入賞するようになった時の西洋人の気持ちはこんなだったろう(直前にあったショパンコンクールでも、日本人が2位と4位に入賞した。しかも1位のカナダ人は中国系)。

 さて、終わってから思うのは、こんなものに応募しなきゃあ良かった、という後悔と慙愧、自己嫌悪ばかりだ。コンクールなんて虚無僧の行くところでは、断じて、ない。今回のことは一刻も早く記憶も記録も抹消してしまいたいところだ。でもまあ、現世の土産は梅干し(十粒入っていた)くらいなものだが、冥途の土産噺の一つにはなったから、忘れてしまうのも勿体ない。忘れてしまっては冥途の土産噺にもならぬから、コロナ禍中でのことの顛末と、それなりに得たこと、思ったことなどを、少し書き残しておこうと思う。ひょっとしてどなたかの参考になることが幾分かでもあれば望外のこと。

2.コロナ禍

 2020年の新年早々始まったコロナ禍。おかげで全てのイベントが中止となり、何もやることが無くなってしまった。

 私にとって2020年はすごく忙しい年になるはずだった。例年通りのイベントの他に、いくつかの予定・計画があった。前年に鎌倉の建長寺であった虚無僧研究会の献奏会が、この年は横浜の本覚寺(虚無僧寺・西向寺の菩提寺)を予定していて、横浜在住の私は建長寺に続いて今回も受け入れ側に駆り出されていた。本曲以外では、現代邦楽の合奏にも参加するはずだったし、アンデス音楽グループとの演奏、ピアノと尺八の演奏なども予定していた。尺八の他にも、フルートで参加している木管アンサンブルの演奏(多くは高齢者施設の慰問演奏だが)も、この年からは倍増するはずだった。2020年はオリンピックの他、ベートーヴェン・イヤー(生誕250年)、作曲家・古関裕而を扱ったNHKの朝ドラ(エール)、翌年には東日本大震災・原発事故から十年、‥‥、演奏テーマには事欠かないはずだった。尺八とフルートを合わせて、本番は月に1回では足りないはずだった。

 そんなことがすべてコロナ禍で無くなってしまい、ひたすら巣籠りの日々を過ごすことになった。

3.2021国際尺八コンクールin田辺

 コロナ禍は翌2021年になってもまったく治まりはしなかった。オリンピックは1年延期の2021年夏に無理やり開催されたが、我々に関わるようなイベントは何も無い。自分の出番はもちろん、聞きに行くコンサートやイベントも無い。そもそも外出すること、人混みに行くこと自体、恐怖であった。

 そんな、悶々とした状態で、知ったのが「2021国際尺八コンクールin田辺」。尺八のコンクールとはどんなものなのか、想像もつかない。コンクールと言えば、学生時代の吹奏楽、社会人になってからのマンドリン合奏で経験したが、いずれも苦い記憶しか残っていない。しかし、応募費用はたった3000円。予選には自分で録音した音源を送るだけ。課題曲は誰でも知っている「荒城の月」。どうせ他にやることも無いし、予選を通らなくてもちょっとした腕試しにはなる、と、安易な気持ちで応募することにした。思い立ったのは、応募締め切り(6月30日)の直前、1回目のワクチン接種を終えてからのことだ。

 本選会が行われるという和歌山県田辺市は、虚無僧の伝説の興国寺のある由良の近く。興国寺には十年ちょっと前、西国の観音霊場巡りのおり、那智の一番札所青岸渡寺から和歌山の二番札所紀三井寺に向かう途中で立ち寄り、本堂や虚鈴庵(尺八道場)で献笛させていただいたことがある。そんな地で行われるコンクールということにも興味は湧く。

4.課題曲

 課題曲は「荒城の月」のメロディーを吹くだけだから、尺八でなければ小学生でも応募できそうだ。ところが実際に尺八で吹いてみると、まるで様にならない。

 楽譜を見て最初に狼狽えるのは、1番と2番で短7度高く転調されていることだ。こういう転調は普通は無い。津軽五調子で言えば、曙調子からいきなり雲井調子変わるようなものだ(実際には夕暮調子から本調子)。この転調の結果、尺八の最低音(乙ロ)から最高音(大甲二四五のハ)まで使うようになっている。それより大問題は、転調の間のつなぎの細かい音符の部分。転調前の調にも後の調にも含まれない音があったりして、かなり普通ではない感じがする。これをいかに料理するか、というのが、まさに「課題」なのだろう。

 さて、どんな曲を演奏するにしても、まずアナリーゼ(楽曲分析)をすることが大切だ。曲の背景・時代背景、作曲家のこと、作曲時の作曲家の事情、作曲意図、などなど。歌詞のある曲なら歌詞のことも。古典本曲のような伝承音楽には明確な作曲者はないが、伝承経路や伝承者に思いを馳せることはできる。そしてその上に、自分のどんな思いを乗せるのか。またアレンジされたものなら、まずオリジナルをよく知る必要がある。そしてアレンジの意図も測らねばならない。

 課題曲(編曲者は明示されていない)の旋律をよく見ると、滝廉太郎のオリジナルと山田耕筰のアレンジと、そのどちらでもないものが、微妙に混在していることに気づく。音高(音程)で言えば(たった一か所のたった半音の違いだが)、よく知られている山田耕筰のアレンジではなく、今はあまり聞かない滝廉太郎の原曲と同じだ。しかし一方、リズムではどちらでもなく、「付点4分+8分」がどちらとも違う場所になっている。不用意に、聞き覚えで吹いたり、付点をうっかり見落としたりしたら、それでアウト、という「引っかけ問題」のようだ。

 瀧廉太郎は若死にしているが西洋(ドイツ)にも留学したれっきとした西洋クラシック音楽の作曲家だから、西洋音楽の常識に基づいて、洋楽的な工夫をして吹くことにした。

 楽譜にはテンポ、強弱、緩急、表情などの指示が(最後にフェルマータがある以外は)ない。演奏にはこれらを自分で補う必要がある。リズムもかなり工夫しないと様にならない。リズムに関しては、このところ、30年前に著者の藤原義章さん(指揮者でビオラ奏者)から頂いた「リズムはゆらぐ ―自然リズムの演奏法― 白水社 1990」という本を引っ張り出して読み返していたところだったので、彼のリズム理論を参考にしてみた。実はこのリズム理論は(とりわけ彼独特のアウフタクトの説明は)、西洋クラシック音楽にとどまらず、古典本曲にもその他のどんな音楽にも参考になるものだと思う。

 何度も録音してみて、一番良さそうなものを選んで、〆切直前に提出した。まあ何と言うか、あまり尺八本来の、尺八らしい演奏ではない、少なくとも虚無僧の尺八とは対極的な「荒城の月」になってしまったかも知れない。

5.自由曲

 まさか予選を通るとは思わず、賑やかしくらいのつもりで応募したのだが、7月中旬、なんと予選を通過したという連絡が来た。コロナ禍は一向に収まらないから、本選会は棄権しようか、とも思うが、それでもとにかく自由曲の練習をしなければ。

 本選で演奏する自由曲は根笹派・松風にしたが、当初は特に意図があったわけではない。繰り返しをカットして吹いてみたら、制限時間の5分にちょうど収まったからこれにしただけのことだ。

 さて、練習しようにも、緊急事態宣言のために練習場所がさっぱり確保できない。やっと練習場所が確保できるようになったのは9月末に宣言が解除されてしばらくした10月中旬からで、それまでは自宅で、ご近所と家人と猫に気を遣いながら吹くしかなかった。

 コロナ禍以来、そもそも外出ということをほとんどしていないから、ついに稽古にも行っていない。練習すると言っても、ひたすら自分の音を録音して聞いて、師匠の音と比べるばかり。聞き比べると、師匠の松は趣のある松、そこを抜けてくる風の音は如何にも松籟だが、私の松は遠州灘の防風林・防砂林の趣もへったくれも無い無粋な松、風もうるさい雑音・騒音(時々無音)をたてるばかりだ。

 でも、どんな松でも松は松。松樹千年翠と言う。松は生命力の象徴だ。結果として、コロナ禍の終息を祈るには相応しい曲だったかも知れない。‥‥だったら‥‥、虚無僧だ。それに国際コンクール、外国人もいるのなら、あえて虚無僧でやってみたい気もする。虚無僧所縁の地での開催でもあるし。

6.困った問題

 いくら練習しても解決しない問題もある。中でも、自分の身体のことはどうにもならない。

 尺八を構えると左手の人差し指が震える。もう十年以上も前からの症状だが、今回の練習を本格的に始めてから一段と酷くなったようだ。医者によると、本態性振戦というものらしい。原因も治療法も不明で、酷くなって全身に及べばパーキンソン病とのこと。

 これに悩む演奏家が本番では震えを止める薬を飲む、というネットの記事を見かけて医者に相談したら、「抗不安薬」のセルシン錠を処方してくれた。私の震えは緊張によるものではないように思うのだが、藁にも縋る思いで、とりあえず練習の時に試してみた。練習開始の少し前に服用したら震えは治まるようだが、集中力が落ちて注意散漫になる。抗不安薬だからあたりまえだ。さてこれは究極の選択だ。集中力を落としても震えを止めるか、震えがあっても気力で乗り切るか‥‥。半分だけ服用してみたが、やはりやや注意散漫になるようで、一方、震えが治まるかと言うと微妙なところ。薬はやめて、いつ震えるかと緊張しながらやった方がましかも知れない。

7.虚無僧

 9月末、コンクール事務局から本番での演奏スタイルについて問い合わせがあった。立奏でも座奏でも よいとのこと。衣装の制約も無い。それならやっぱり虚無僧だ。事務局の返答はあまり芳しくなかったが、それでも認めてくれた。

 古典本曲は人様に聞かせるために吹くものではないと思っている。しかし、虚無僧ならその限りではない。ただ、コンクールで聞いていただくのは、静かに聞いてくださる仏様でもなければ喜んだり聞き流したりたまに喜捨を下さったりする人様でもなく、私の演奏を採点しようという、仏は仏でも閻魔様たちだ。なんだか微妙な気がしないでもない。

 虚無僧の格好をしたら、ただ突っ立ているだけではつまらない。しかし、客席の後ろから吹きながら登場するなどと言うのは到底無理。せめて舞台袖から吹きながら登場したいところだが、それもダメらしい。舞台中央で演奏するのが原則のようだ(まあ、コンクールだから当然か)。

 それで、別の設定を考えてみた。この舞台を修行道場(坐禅道場)に見立ててみた。舞台に出る時は禅堂に入るときと同様に合掌低頭(尺八を片手に持っているので片手で)し、合掌したまま演奏する位置(自分の坐る単に見立てた)まで行き、単の前で尺八を捧げて単と尺八に礼をする。演奏が終わったら同様に単と尺八に礼をして、舞台袖までは叉手当胸で移動し、禅堂を出る時のように合掌低頭してから捌ける。

 舞台を道場に見立てるなら、もう一つ大事なことがある。写経する時は必ず願文を書くのと同じように、仏前で本曲を吹くときは何か願を立てる、あるいは何かを念ずることにしている。今回の松風には、生命の象徴である松を抜ける風に、コロナ禍を吹き飛ばし、コロナ禍を鎮めてほしい、という願を立てることにした。あっちこっちで行化・托鉢する気持ちで舞台をあっちこっち歩きながら、あっちこっちに功徳が届くようあっちこっちに向かって吹くことにした。まあ、こんなのがコンクールに相応しいわけはないのだが。

 今回の虚無僧衣装は外を歩くよりは少し派手にした(せっかくの舞台だから)。衣はいつもと同じく黒の(紋のない)小袖を脛の半分くらいまでに端折って着た。その下に脚絆、手には手甲。袈裟(絡子)は、舞台でしか使ったことのない立派なものにし、百八珠の数珠も首に掛けた(虚無僧は本当は掛けない)。その他はいつも通りで、偈箱を掛け、腰には印籠(印籠には正露丸と胃薬とバンドエイドを入れている)を下げた。替竹は、尺八ではなくていつも通りケーナが入っている。足は本当は雲水のように素足でわらじにしたいところだが、素足で雪駄を履くことにした。そして天蓋。

8.予行演習

 本選会の三日前の11月3日、地元の区民文化祭というイベントがあった。このイベントにはこれまでに何度も虚無僧で出演したことがある。一人の持ち時間は5分、本選と同じだ。本選の予行演習を兼ねて、参加申し込みをしておいた。

 虚無僧でやる時は、いつもは舞台袖から吹きながら出るのだが、本選にあわせて、舞台中央に進んでから吹奏を始めた。ところが、最初の「ハロー」の「ハ」から「ロ」に移ろうとした瞬間、朝起きた時のように口の中がネバネバ・ベトベトしていて、発音がままならない。唾液がしっかり出ていないのだ。鳴らなかった「ロ」を伸ばしているふりをしている間に唾液をなんとか絞り出して、コミから何とか音を出した。本番でのこんなトラブルは最近は無かったのに。

 唾液の出が悪かったのは、直前(と言っても小一時間前)に食べ物(と言ってもドリンクゼリーを二つ)を食べたからだろうか。昔、演奏直前に食事をして痛い思いをしたことがある。それからは演奏前の少なくとも2時間以内には食事はしないことにしている。それなのに、ついうっかりやっちまった。

9.本選会

 11月6日、いよいよ和歌山に行く日になった。朝7時前に自宅を出て、紀伊田辺駅到着は12時半過ぎ。さて食事はどうしよう。コロナ禍中、車中で弁当を食べるのは抵抗がある。集合は14時、出番は16時少し過ぎだから、予行演習での失敗を考えても、駅に着いてから集合時刻までに軽く昼食をとって大丈夫だろう。とりあえず会場を確認してから、その近くで食事のできる店を探そう。ところが適当な店が見つからず、結局、会場の隣のコンビニでおにぎりとドリンクゼリー二つを買った(なんだか嫌な予感)。

 集合時刻になり、出演者が集合すると、スケジュールや会場についてのいくつかの説明があり、続いて舞台での短いリハーサルがあった。リハーサルは舞台の音を確認するものだろうが、私は音の確認まで気が回らなかった(本末転倒だが)。舞台は思っていたよりずいぶんと狭い。そしてライトは中央だけ明るく、少し外れると暗くなってしまう。中央の明るいところだけだと、虚無僧の歩ける距離があまりない。想定が狂った。本来、座奏か立奏なのだから、それが当たり前なのだが。

 控室で着替えをして、出番を待つうちに、なんだかかなり緊張してきた。他のファイナリストの多くは互いに顔見知りらしく、知り合いがたった一人しかいないのは、私くらいだ。控室は音出し可で、それぞれ音出しをしているが、それを聞いただけでわかる。皆上手い。音出しだからと言ってロングトーンだの音階練習だのをするのは私だけだ。他は「鹿の遠音」だの私のトンと聞いたことのない難しそうな曲を滔々と吹いている。左手の本態性振戦を感じるが、セルシン錠(抗不安薬)は持ってこなかった。それで、代わりにブドウ糖(商品名「夢のくちどけ ぶどう糖」)を食べることにした。ブドウ糖は脳のエネルギーになり、集中力が欠けた時には有効だ。長距離の運転をするときなどに重宝している。緊張にも効くかも、と思って、控室にいる間、出番の直前までに3粒か4粒食べた。

 さていよいよ本番が始まる。2人前の出演者の演奏中は舞台下手の外の廊下で、1人前で舞台下手の袖で、順番を待つ。私は3番目だから、1人目の演奏が始まる前から廊下で待つことになるわけだ。その間、水が飲めない。演奏が終わったら舞台上手から捌けることになっているから下手には戻れない。だから水を持って行けないのだ。でもまあ、顎を動かして唾液の準備はしているし、大丈夫だろう。

 ついに私の番。予定通り舞台袖から出たところで合掌低頭して、合掌のまま舞台中央の×印(バミリ)まで進んだら、名前と曲名の紹介があった。一礼して、さっそく「ハロー」。とっ、と、ところが、三日前の予行演習と同じく、口の中がネバネバ・ベトベトで「ロ」の発音がままならない。悪夢だ! 舞台が想定より狭かったことに加えて、これでもう、本当にパニックだ。なんとか演奏は続けたが、動き始めるタイミングが早すぎて、横を向いたまま随分と長く吹くことになってしまった。その後も、もう滅茶苦茶なことになってしまった。

 演奏を終えて、一礼して叉手当胸で上手に。合掌低頭して捌けた。急いで控室に戻った。テレビドラマの「のだめカンタービレ」(のだめ=上野樹里)で、ピアノのコンクールのファイナルで弾いた「ペトルーシュカ」の途中が「今日の料理」になってしまったのだめが、結果発表の前に衣装をまとめて会場を飛び出していったのと同じ気分だ。私は、衣装はまとめたが控室を飛び出すのは堪えた。

 もうコンクールなんて懲り懲りだ。だいたい虚無僧が来る場所ではない。しかしそれでも、控室で一緒になった若者(誰だったか不明)が、ああ、これが天蓋ですか、などと随分と興味を持ってくれたから、まあこれはこれで良かったこととしよう。

 日本人の他のファイナリストたちの演奏はほとんど聞けなかった。着替えなどを終えて客席に入ったら、もう最後の二人だった。他は、出番を待つ舞台袖で私の一人前(それが1位入賞者だった)を聞いただけだ。海外のファイナリスト(全員中国人)は入国出来ないから、各々で撮影した動画での審査となった。この動画は見ることが出来た。皆、上手くて若い。随分と日本風にこだわったところで演奏・撮影している人が多いのは驚いた。

 日本人と中国人を比べて、年齢の他にも、面白いことに気が付いた。使っている尺八が、日本人は13人中9人が1尺8寸、2人が2尺4寸(残り2人は1尺9寸と2尺1寸)なのに対して、中国人は1尺8寸と2尺4寸が同数の3人ずつ(残りは1尺6寸)で、しかも1〜3位入賞者だけで見れば、日本人は全員1尺8寸、中国人は全員2尺4寸だ。もう一つ、日本人は全員が竹の尺八だが、中国人の一人はメタル尺八だった。これらのことが何を意味するのかよくは分からないが、これからの日本の尺八界、中国の尺八界を何か暗示しているのかも知れない。

10.田辺の夜

 本選が終わり、審査員の先生たちによるスペシャルライブが終わり、表彰式も終わったらもう20時。顔見知りを何人か見かけたが、声も掛けずにさっさとホテルに直行した。

 ホテルは紀伊田辺駅近くの、なんだか怪しげなところだ。安いだけのことはある。とにかく夕食を食べなくては。ホテルで聞くと、駅の周りの飲食街は夜遅くまでやっているから大丈夫、しかし、駅構内のコンビニはセブンイレブンなのに朝は6時からで夜は10時までだとか。とりあえず駅の周りの飲食街に行ってみると、最初に目に入ったラーメン屋はもう店じまいをしていて、開いているのは居酒屋だのパブだのスナックだの、そしてあっちからもこっちからもカラオケが響いている。和歌山は感染者がほとんどいないようだけれど、それにしても‥‥。一人でそんな店に入る気にはならない。コンビニで弁当とビールとつまみを買い込んで、ホテルに戻った。

 本番でなぜ唾液が出なかったのかを反省する。たしかに水分補給は足りなかった。何しろ出番を待つ間に水が無いのは辛かった。今度こんな機会があったら、太田胃散と正露丸とバンドエイドを入れた印籠なんかどうでもいいから、水を入れた瓢箪か竹筒でも腰に吊るすことにしよう。しかし、それより大失敗は、控室で食べたブドウ糖なのかも知れない(後で医者に聞いたところによれば、糖分は血糖値を上げるから、唾液分泌を減らすとのこと)。せっかく食事には気を付けていたのに、これでは台無しだ。生兵法が命取りになった。

 今日はもう尺八のことは考えたくない。ビールを飲みながらテレビをかけた。NHKのETV特集「奄美・アイヌ 北と南の唄が出会うとき」という番組をやっていた(実は自宅のテレビに録画予約を入れてきた)。まったく素朴で、しかし不思議な力のある、唄、三線とトンコリ。奄美の唄とアイヌの唄が、まったく自然に呼応し、混ざり合う。神、自然、祖先、‥‥。ツマミは食べ残したが、買い込み過ぎたビールはテレビを見ながらすっかり飲んでしまった。少し飲み過ぎたけれど、翌朝の帰りの指定席は買ってあるから、乗り遅れないように起きなくちゃ‥‥。

11.唾液分泌のこと

 今回の最大の敗因は、本番(予行演習も含めて)で唾液が出なかったことだ。コンクールが終わってからの1週間ほどは尺八に触れる気にもなれず、しばらく休んでいたフルートをひたすら吹いた。ところが、フルートを吹いていても唾液の分泌が悪いことに気が付いた。コンクールのあの時だけではなかったのか。これはどういうことだ。

 医者に相談し、血液検査もした。結果、病気の心配はないとのこと。唾液の出ない原因は、医者の話しなどを総合すると、まずは緊張。確かに本番では緊張していた。しかし、フルートのただの練習で緊張はしない。次はブドウ糖。本番前のあれは確かにマズかった。しかし、毎回フルートの練習の前にブドウ糖を食べているわけではない。次はコーヒー。実は自宅で練習する時は、練習のルーティーンとしてコーヒーを(豆を挽いてドリップして)頻繁に飲んでいる。カフェインは唾液分泌を減らすそうだ。コーヒーは少し減らした方がいいのかも知れない。加えて酒。これはなかなかやめられないが、カフェインと同じく利尿作用が唾液分泌を減らすらしい。そして最後は、加齢。結局行き着くところはこれか‥‥。

 因みに、唾液分泌で困っている人は多いらしい。本選会の翌朝、駅で帰りの列車を待っていると、最高齢の参加者の方と一緒になり、唾液の話題になった。彼は、本番中にもガムを噛んでいて、音を出す時はガムを頬の内側に留めておくのだとか。また、彼の師匠であった島原帆山師はレモン味の喉飴をいつも携えていて、本番にはお弟子さんたちも配っていたのだとか。別の人からは、唾液が出すぎるという話しも聞いた。その人同様、横山勝也師は唾液が出すぎるから、本番前にはお茶も口にされなかったとか。管楽器奏者にとって唾液は出ても出なくても頭の痛いことだ。感染症では、飛沫が目の敵にされているし。

 追記:コンクールが終わって2週間もしたら、不思議なことに、今度は唾液が出すぎて困る事態が発生した。もしかしたら、コンクールの前後に唾液が出なかったのは、実はストレスのせいだったのかも知れない。ストレスは、短期的にではなくて、何週間とか何ヶ月という長期的に影響するものなのかも知れない。ひょっとしたら、本態性振戦が酷くなったのも、ストレスが影響していたのだろうか。とすると、今回の真の敗因は、ストレスだったのかも知れない。

12.古希

 2021年、私は数えの古希だった。翌年春には満年齢の古希になる。自分の演奏能力のピークは古希までで、古希からは落ちていくだろう、と以前から思っていたし今も思っている。ピークと言ってもそう急峻なものではなくて、平坦な台地のようなものだろうが、その台地の縁が古希あたりだろう。

 演奏能力の要素は身体能力と知的能力に大別できよう。身体能力は年齢とともに衰える。スポーツ選手は、種目によっては20代での引退も珍しくはない。一方、知的能力は努力や経験で齢を重ねてますます向上することもある。高齢の作家はいくらでもいる。しかし、それにも限界はあり、知識もいずれ失われる(忘れる)時が来る。もう既に私の記憶力も認知機能もかなり衰え始めている。

 演奏能力はおそらく、身体能力と知的能力の(足し算と言うよりは)掛け算だろう。そう考えると、まさに今、69歳の私の演奏能力は坂を降りはじめたのだと思う。

 本態性振戦や唾液分泌のほか、様々な問題が生じてきた。右手拇指の変形性関節症は、長管に苦労は無いが短管を支えるのは辛い。逆に長管やフルートでは、指の関節が硬くなったのか、指が開かなくなり、支障が生じてきた。膝の下の骨が変形して飛び出して来て、その部分が床に触れると激痛が走るから、正座での演奏はしたくない。耳鳴りがずいぶん酷くなってきた(ベートーヴェンの耳が聴力低下ではなくて耳鳴りだったら、間違いなく彼は音楽家では、つまり生きては、いられなかったろう)。目も乱視と老眼が進み、五線譜では読み間違いが増えてきた(しかし目のことはあまり言うまい。盲目の音楽家はいくらでもいる。宮城道雄、長谷川きよし、辻井伸行、‥‥)。

 演奏能力を保っているうちにと、還暦で定年退職してから1日3時間(実績は平均2時間半)の練習を課し、その前の10年間の練習時間の推計と併せて1万時間を目指した。2020年には達成するつもりでいたから、達成予定の2020年にはたくさんの計画を立てていた。が、結局コロナで計画はみな消滅し、練習もやる気を失くしてしまった。それでも1万時間は2021年4月、私の69歳の誕生日の2日前に達成した。

 一応1万時間は達成したが、しかしやることが無い。そこに降って湧いたのが今回のコンクール。コンクールにコンクールらしく取り組んだとは到底言えないが、それでもこのおかげでいろいろ考えたり練習・訓練したり、とりあえず半年間は目標を持つことが出来た。

 そのコンクールも(不甲斐ない結果で)終わった。さてこれからどうしよう。もう、何かを自分に課すことはやめ、気の向く時に気の向くままに気のすむだけ吹くことにしようと思う。ことさら目標とか計画はもう立てない。人様に聞かせるのではなく、もちろん閻魔様に聞かせるのでもなく、ただ仏様が聞いて下さればそれでいい。天蓋ももう被らないことにしようと思う。私の虚無僧は所詮はパフォーマンスで、本当の行化・托鉢ではない。雲水の真似事をして悦に入るより、毎度の食事に心から感謝することの方がずっと大切なのと同じだ。

 演奏能力がこれから下り坂を転げ落ちていくのは確実だ。かと言って、すべての能力が失われるわけではない。「超絶技巧」にこれから挑戦するのはナンセンスだが、これから先も続けられることはまだまだある。仏様に向かって本曲を吹くことは、息さえしていれば(生きてさえいれば)、いつまででもできる。たとえ音が出なくなっても、指が動かなくなっても、それはそれでいい。

 田辺の夜のホテルで見たテレビ番組「奄美・アイヌ 北と南の唄が出会うとき」に出演した奄美の唄者・朝崎郁恵さんは86歳(撮影時はたぶん85歳)だ。その唄に感動するのは声量がどうの、技量がどうの、というようなこととは関係ない。自然と湧き出てくる何かだ。あんなふうに演奏が出来たなら‥‥。これこそが、今回のコンクールの顛末中の最大の収穫だったのかも知れない。




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