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原始仏教における悟りと救い

原始仏教における悟りを一言で説明すれば,無我となるでしょう. ただしこの場合の無我は,三法印の諸法無我で言う無我と少し違い,無欲に近い意味を私は考えます.

原始仏教とは,お釈迦様入滅後百年ころまでの仏教を指します. そのころ(紀元前三〜五百年ころ)のインドは様々な面で変化の時代でした. 生産力の向上,都市の成立,商業の普及. 民族移動による混血,商業的交易による異民族の接触・共生も増えた. 厳格なカースト制度がある一方,群小国家併存による軍事的緊張の中で武士階級の地位が高まりバラモン階級の地位が低下するなど,身分制度や因習にも矛盾を生じました. 生産力の向上は富の偏在をもたらし,道徳をも頽廃させました.

このような中で,人々の欲望はそこそこ満たされる一方,意のままにならぬことも多くあります. 意のままになることがあるが故に,そうならぬことの苦しみはより強くなります. 意のままにならざるものの代表は生老病死の四苦,さらに愛別離苦,怨憎会苦,求不得苦,五陰盛苦を加えた八苦と言われますが,現実にはまさに無数の苦があります.

インドでは,このような苦しみの世界の見方として,輪廻転生の思想が支配的でした. 善悪の業報によって三界六道に転生するということです. 善因善果・悪因悪果とは言え,人間の行為には限界があるから,その果報にも自ずと限界があり,従って完全に苦から逃れることはできません.

このような輪廻する苦の世界から救われること(解脱)を求めて,ジャイナ教をはじめ様々な教説が現れました. お釈迦様の教えもそのような一つです. なお,私は輪廻思想を仏教から発した思想と教えられたように思ってきましたが,むしろ逆で,お釈迦様は輪廻をさほど重視してはいなかったのではないかと感じています.

お釈迦様の教え(原始仏教)は,苦がどこから来るのかを知り,その根源を除くことで苦も除くことを説いています. お釈迦様は,縁起の考え方に立脚し,煩悩が苦を生ぜしめているとします(縁起は,自然科学的な因果関係だけでなく,事象の相互依存関係を含む概念です). だから,煩悩を捨て去れば自ずと苦も消滅します. これが,お釈迦様の悟りでした(本文冒頭の無我とは,この意味です).

お釈迦様はこの悟りを,十二縁起として説明しました. あるいはまた,四諦・八正道として説明しています. 四諦は,苦諦(人生は苦である),集諦(苦しみには原因がある),滅諦(原因を取り除けば苦しみも消える),道諦(原因を取り除く方法は八正道である)の四つの真理を言います. 八正道は道諦に言う修行の内容で,正見,正思,正語,正業,正命,正精進,正念,正定の八つですが,各々は何か特別なことと言うより,至極当然のことです.

しかし悟りは理論ではありません. 数学の定理や物理学の法則は,いかにそれが難解であろうと厳密に記述でき,他者が検証し,やがて万人の知識とすることも可能ですが,悟りは,たとえ十二縁起や四諦八正道などの理法を知ったところで,それで悟ったことにはなりません. 悟りは,そういう理法をためらいなく素直に受け入れられる心の在り方なのだと思います. それは知識だけからは得られません. だからこそ修行が必要なのです.

ただしお釈迦様の示した修行は,当時の他の教説における苦行とは異なっています. 八正道に説くような,至極当然のことばかりです. もっとも,だからこそ,逆に困難な修行であるとも思えます.

ところで,前述の通り,煩悩とは斯くあって欲しいという欲望,つまり我執です. しかしこれは本来,己の生命を維持するために備わった,生物として重要な能力なのです. それを失ったら生命の維持もできなくなってしまいます. 生命維持の放棄が悟りの目的ではありません(結果としてそうなろうとも). そこで,大乗仏教になると煩悩即菩提などとして,煩悩をうまくコントロールして生きていくことが大切だと説かれるようになりました.

では現在の我々の大乗仏教はお釈迦様の教えから変質してしまったのでしょうか. いや,そうではありません. お釈迦様の悟りが生命に関わるような難行苦行を中止した後であったことからも,お釈迦様の教えそのものが煩悩即菩提であり,そうでありながら無我であったのだと思います. 原始仏教にせよ大乗仏教にせよ,諸行無常,諸法無我,(一切行苦),涅槃寂静の三(四)法印には変わるところはありません.

参考文献

中村元: 原始仏教 その思想と生活,日本放送出版協会(1970).
水野弘元: 仏のおしえ,わかりやすい仏教用語辞典所収,大法輪閣(1983).