浅学レポートに戻る


中国における禅の歴史


中国における禅の歴史

中国に仏教が伝わったのは随分と早い時期でしたが,禅の本格的な歴史は,インドから菩提達摩がやって来たところから始まります. これは六世紀始めころであり,日本にもようやく仏教が伝わるころのことです. 初祖菩提達摩大師の後,二祖慧可大師,三祖僧■そうさん鑑智禅師,四祖道信大医禅師,五祖弘忍大満禅師,そして六祖慧能禅師へと続きます. 六祖慧能は西暦六百年代後半ころの人ですから,達摩から慧能までおよそ二百年近くを経ていることになります.

歴史の見方について

ところで,中国における禅の初期の歴史について,二つの見方,あるいは評価があります. 一つは,具体的に起こったことの時間に沿った記録としての見方・評価であり,もう一つは,理念・思想・考え方あるいは宗教的見地の表明としてのものです. 前者は歴史学者としての立場であり,後者は禅者としての立場です. そして,歴史として実際に残されているのは,各祖師にまつわる逸話がほとんどです.

歴史に対する見方の,一つめの立場からは,その逸話が実際にあったことなのか,ということが問題になります. しかも,伝えられている逸話の多くは,おそらく,史実とはかなり異なるのでしょう. 例えば,達摩が中国に来た時の逸話にしても,一人でインドから中国までやって来ることは,当時の状況では考えにくいでしょう. しかもそして簡単に一国の帝(武帝)に会えるものではないでしょう. いわば外交使節団のような形態でやって来たに違いありません. また,二祖慧可の断臂なども,史実であるのかどうか,はなはだ疑わしいと思わざるをえません. そもそも,慧可が実在の人物であるかどうかすら定かではないようです.

しかし,二つ目の立場からは,そのようなことは大した問題にはなりません. 重要なことは,そもそも己が救われることが目標なのですから,祖師の言葉や逸話の中に自分を救ってくれるものがあるかどうか,ということなのです. 慧可断臂が史実であろうとなかろうと,それは禅における求法の厳しさの象徴であり,今でも入門しようとする者を玄関にて追い返すという慣わしにつながるのです.

中国における禅の受容と中国化

さて,インド僧菩提達摩によって中国に伝えられた当時の禅は,インド的なものでした. それが六祖慧能のころまでには中国化されたものと考えられます.

中国に仏教が伝えられる前から,中国では道教が盛んでした. 自ら仙人となり,不老長生を目指すという道教には,表面上は禅と似た面があり,このことは,禅が中国で受け入れられ,また中国化されるにあたって,重要な役割を果たしました. 道教の側でも禅の要素を取り入れ,互いに影響を与えあったようです. 例えば,少しく後の時代ですが,臨済録に登場する普化(虚無僧の祖とされる)の素性ははっきりしませんが,道教の人ではないかとも言われています.

ところで一方,禅の中国化には,もっと現実的な要請,つまり気候風土という問題も大きく関わっています. 気候条件の厳しい中国では,インドのように遊行・托鉢に頼って,瞑想ばかりしていられるわけではありません. そこで,修行者は山中の一ヶ所(寺)に集団で定住し,いわば自給自足的な生活をする必要が生じました. これが作務の起こりです. このことによって,インドにおいては瞑想であった禅が,日常生活と一体となり,現在の我々の知る禅となるのです.

禅の歴史が伝えるもの

このようにして,インドから伝わった禅は,次第に中国化され,インドにおけるものとは随分と異なった様相を呈するようになりました.

しかし,それでは禅は中国化を経て,変質したのでしょうか. そうではないでしょう. 表面的な姿は変わっても,お釈迦様の悟りから続く本質には何ら変わりはないはずです. 禅の歴史に現れる様々な逸話が,結局はみな同じ,同工異曲であることも,それを示しています.

その意味で,禅には思想的な展開というものは無かったと言えます. ただ,その時代,その土地,その状況に応じて,表現が変わっただけです. 方便と言えましょうか.

では,禅が伝えてきた変わらないものとは何でしょうか. それは,安心を得るためには,「念」を離れなくてはならない,ということです. 迷いや恨み,喜怒哀楽のすべては,己の念から生じたものなのですから,それを離れれば,心は安心を得ることができます. しかも,それがお釈迦様の説いた悟りそのものなのでしょうが,その悟りは自分の外にあるのではなくて,元来自分の中にあるものなのでしょう.

しかし,このことを伝えることは容易ではないでしょう. 以心伝心・不立文字と言われるように,少なくとも,言葉を用いて理論のようにして説明できるものではないでしょう. 行を通して,心から心に直接にしか伝えられません. しかし,それをわずかに補う方法として,禅では,祖師たちの様々な逸話を利用するのだとも思えます.

このように考えると,禅の歴史が,あるいは史実と異なるとしても,それはそれとして,禅を学ぶにあたり,「歴史」を知ることに重要な意義のあることが納得されます.


(これは,形山睡峰老師のご講義を,私が勝手にまとめたものです.)