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三法印について

三法印

三法印は,「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」の総称で,仏教の根本思想「縁起説」を簡潔に要約しています.

なお,「法印」という用語そのものは原始仏教にはありませんが,「法のしるし」「これが仏教であるという仏教独自の標識」の意味で,ある経典が真の仏説であるか否かを判定する標準として古くから用いられてきました.

諸行無常

「諸行無常」は,縁起説のうち,最も一般的な時間的因果関係です. 「行」とは現象のことであり,物質的現象と精神的現象のどちらをも指します. いかなる現象も他の現象の結果として顕れるのだから,原因となった現象が変化消滅すればその現象も変化消滅します. 即ち,一切の現象は一瞬の停止もなく,時々刻々に生滅変化することを言います.

あらゆる現象が無常であるにもかかわらず,我々は今の状態に執着します. 例えば,「今自分が生きている」という現象についてはことさらです. 無常は,悪い状態への変化の意味で用いられることが多いですが,本来は価値的判断は含まれません. 無常であるからこそ,良い状態に変化することもありうるのです.

大切なことは,次の瞬間に状態が良くなるにせよ悪くなるにせよ,今に執着しないことです. しかしそれは,今を蔑ろにすることではありません. 逆に今を最大限大切にすることであり,それが「一期一会」の意味でもあります.

諸法無我

仏教において「法(ダルマ)」という用語は,非常に多義的に用いられています. 本来的には秩序・法則・道徳・法律などを意味し,あるいはお釈迦様によって解かれた教え(教法)を指す場合もあります. とりあえず「諸法」を,「ありとあらゆる存在」の意味に解釈します. 「我」は,実体の意味です. つまり,「諸法無我」は「ありとあらゆる存在には実体はない」という意味となります.

「諸法無我」は,先の「諸行無常」から導かれます. いかなる現象も他の現象の結果として顕れるから,その現象に永遠不滅の固定的な実体は認められません. あるのは他との時間的空間的・直接的間接的な関係のみです.

ところが我々は,そこに何か常住不変な実体があるように思いこみ,それに執着するところから,多くの煩悩を生ぜしめます. 「愛」や「憎しみ」はその好例です. これらは他の現象の結果としての現象であって実体はなく,原因となったのも実体のない現象なのであり,そのまた原因も同様です. であるにも拘わらず,愛や憎しみを生む実体の燃える炎に,我々は苦しむのです.

「無我」は,大乗仏教では「空」と言い表されるようになりました. 原始仏教における「諸法無我」は,大乗仏教では「一切皆空」と説かれますが,同じ意味です.

涅槃寂静

涅槃とは,火(煩悩の)が吹き消されている状態を意味します. 涅槃に至るには,諸行無常,諸法無我であることを知り,それを体得し,自分自身を含むあらゆる物事への執着を断ち切らなくてはなりません. 煩悩が消え,苦の無くなった状態は寂静です.

涅槃はまた,彼岸(到彼岸),解脱などとも同義語であり,仏教の最終目標です.

一切行苦と四法印

諸法無我と涅槃寂静に間に「一切行苦」を加えて,四法印とすることもあります.

「苦」とは,苦痛や苦悩というよりは,己の思い通りにならないこと指すと考えた方がわかりやすいでしょう. 諸行無常であり諸法無我であるならば,一切の現象が己の思いのままにならないのは当然です. 一切行苦は,涅槃寂静の正反対の状態です. 涅槃寂静の還滅縁起に対し,一切行苦は流転縁起に相当します.

まとめ

以上を私なりの解釈でまとめます.

一切の現象(諸行)は,他の現象との相互関係の上に成り立つものだから,一定の状態に留まることはありません(無常). 現象の根底にある道理(諸法)は,現象が無常である以上,(少なくとも自分=我が作用できるような)実体(我)があるとは言えません(無我). だから,どんな現象も自分の思いのままにはならず(一切行苦),それ故に苦しむのです. 思いのままにならないものを思いのままにしようとすること(煩悩)を捨て去った静か(寂静)な心の状態が理想です(涅槃).

参考文献

水野弘元: 仏のおしえ,「わかりやすい仏教用語辞典」所収,大法輪閣.
玉城康四郎: 法U,現代哲学事典,講談社.
山崎正一: 仏教,現代哲学事典,講談社.
中村元: 原始仏教,日本放送出版協会.